終りなき愛憎と混沌の群像劇~ジェームズ・ボールドウィン『もう一つの国』
 ジェイクが「災害時に持って逃げる一冊の本は?」と訊かれ、「僕にとっては
素晴らしい本」と言って挙げたというジェームズ・ボールドウィンの『もう一つ
の国
』。残念ながらこの本は現在日本では絶版であり、入手困難なため図書館の
書庫からお借りする。私が読んだのは集英社版、世界文学全集83 ボールドウィ
ン『もう一つの国』1980年発行、野崎孝訳


 圧倒的な本である。舞台はニューヨーク、主要人物は8人。ルーファス、ヴィ
ヴァルド、アイダ、キャス、リチャード、エリック、イーヴ、レオナ。彼らは
黒人と白人というだけでなく、性別、階級、出自の異なる芸術家の卵たちだ。
冒頭から容赦なく彼らに浴びせられる愛憎、困窮、人種差別、暴力。一気に混沌
とした小説世界
に引き込まれ、濃厚でヒリヒリした痛みを伴う人間関係から最後
まで目をそらすことができない。私は第一部第一章で早くも圧倒され、涙し、こ
の小説の虜になった。そして、登場人物たちもそうであったに違いない。この章
の最後に起こる「ある悲劇」に、彼らは最後まで取り憑かれ、混沌から抜け出そ
うともしないように見える。

 この群像劇のテーマは、と訊かれたなら、私は「」と答える。彼らが人種や
性別、階級といった様々な「差別」にもがき苦しむのも、ヴィヴァルドの言葉を
借りればすべて「ただ、愛だけ、それだけなんだ」。男と女の間にあるもの、男
と男の間にあるもの。「愛することができなくて、どうやって生きられるんだろ
う?愛してる場合には、また、どうやれば生きられるんだ
?」愛を求めて愛を得
ても、自分と相手の「」からはどうあがいても自由になれず、愛すれば愛するほ
どに安息とはほど遠い嫉妬や暴力に苛まれてゆく主人公達。
 
 ヴィヴァルドの言葉を胸の中で繰り返しているうちに、アン・リーのコメント
を思い出した。
愛というのは普遍的なもの、誰もが恋に落ちるし、どんなに回り道をしても愛
の謎を解きたいと思っている、誰かと結びつくために

ひょっとしたら、ジェイクがこの本を知ったのはアン・リーに薦められたんじゃ
ないだろうか?と考えてしまう。役作りのために、、などと考えるのは妄想し過
ぎだろうか。

 翻訳もほとんど違和感なく読める。ただ一点、キャスの本名がクラリッサだと
明かされる部分の訳注が気になった。「(クラリッサとは)イギリスの小説
『クラリッサ・ハーロウ』の女主人公」とあるが、普通「クラリッサ」といえば
思い浮かぶのは『ダロウェイ夫人』ではないだろうか?しかもキャスの夫の名前
はリチャードである。クラリッサ・ダロウェイとリチャード・ダロウェイ。また
クラリッサ・ヴォーンとリチャード・ブラウン。『クラリッサ・ハーロウ』は
未読ゆえ、断定はできない。しかしボールドウィンがキャスに与えた名前が上流
社会の貴婦人の象徴であり、後にマイケル・カニンガムによって『めぐりあう
時間たち(The Hours)
』という傑作を生み出すに至る、という見方は飛躍し過ぎ
だろうか?

 小説の最終章は、「もう一つの国」からやってくる希望を描いて終る。長く
苦しい主人公達の葛藤から何の救済も明確に示さぬまま、ラストだけは明るく
未来に歩き出すように見える。この希望もまたニューヨークという混沌に飲み込
まれ、苦悩と渇望へと変化していくのだと予想できたとしても。
 同性愛を含む愛と性、人種差別の現実を、主人公達の魂の孤独として描き切っ
たこの作品が、出版時は賛否両論、物議を醸したことは想像に難くない。しかし
間違いなくとてつもない力を湛えた傑作。手元に置き、何度でもページを開いて
みたい本だ。そしてもしも、もしも映画化されるのならば・・・。ヴィヴァルド
はジェイクでお願いしたい


(『Another Countryby James Baldwin・1962
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[2006/05/22 16:10] | 読書 | トラックバック(1) | コメント(13) |
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コメント
真紅さん、こんにちは。
「もう一つの国」、熱いレビューに圧倒されてます。私はまだ停滞中、困った~!

しかしクラリッサとくれば「ダロウェイ夫人」しか考えられません、ボールドウィンが示した小説は存じあげませんが。

ジェイクがこの本を読んだのは、彼の名付け親だというゲイカップルの推薦かも? もちろんリー監督の推薦、という腺もありえますよね。何しろ自分でみつけてきたとは思いにくいです。

もし映画化されたらジェイク=ヴィヴァルド、いいですね。別記事でエリックにはJ.フランコと書いていただき、妄想しすぎてクラクラしてます。理想の組み合わせです~♪
[2006/05/23 12:57] URL | びあんこ #w4Ib0zSU [ 編集 ]
びあんこさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
体調はいかがですか? お大事になさって下さいね。
『もう一つの国』映画化されるとしたら、やはり一番の肝はルーファスのキャスティングだと思います。
登場人物それぞれがボールドウィンの分身だと思うのですが、ルーファスに一番作者自身が投影されていると感じます。
しかし本当に感銘を受けました。熱い作品ですね。
何とかこの作品の素晴らしさを文章にしたかったのですが・・絶版になっているのが残念です。
『○×文庫の100冊』に入ってもおかしくないと思うんだけどなぁ。。
ではまたお話して下さい。ありがとうございました。
[2006/05/23 14:41] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
真紅さん、レスありがとうございます。
実はさっき、ルーファスについて第1部での圧倒的な存在感、とかなんとか書いたら消えてしまって、書き直す気力がなく、そのまま送信してしまいました。

ルーファス役が決まらないと映画化は無理ですが、うーん、誰がいいか思い浮かばないです。
せめて原作が再発売されるといいのですが。

拙宅で「めぐりあう時間たち(2)」をアップしました、また頭痛が~。(笑)
変な天候ですね。、真紅さんもご自愛くださいませ。
[2006/05/23 20:41] URL | びあんこ #w4Ib0zSU [ 編集 ]
びあんこさん、再びこんにちは。
なんかもう梅雨なん?って感じですね。低気圧が頭痛を連れてくるのかな? お大事に。
ルーファスはジェイミーフォックス、という案もお聞きしましたがどうでしょう? ジェイミーだったらジェイクもヴィヴァルド演じやすいかも? なんか凄い妄想ですが(汗)
ではまた後ほどお邪魔します。『めぐりあう時間たち』大好きです。ありがとうございました。
[2006/05/23 21:09] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
真紅さん こんばんは
すばらしいレビューありがとうございます。ただただもう胸がいっぱいです。この作品をこんなふうに表現していただいて 読んだ当時のあの圧倒感が甦ってきました。文才のない私など 当時、読書記録のようなものをつけていましたが  ○年○月 題名と著者名 良かったかどうか印をつけるくらいで 『もう一つの国』はその年に読んだ本の中で  一等の花丸がつけてありました ・・・『ジョバンニの部屋』 は○でした。
アン・リーのコメントもすごいですね。まさに真理かなぁ 「愛の謎を解く」ために 幾多の物語が紡がれ 自分の中の 「孤独な魂」 を照らされるたびに そんな物語に強く惹かれる気がします。
実は『もう一つの国』を読んだのは S53年と S55年(トシばれますね) いまだに そういう物語ばかりに心揺さぶられるのはどうしてでしょうね・・愛する人がいても 孤独は隣り合わせで そんな物語に繰り返し繰り返し癒されているのかも ・・うまく言葉にできませんが すばらしい物語との出会いから 確かに生き続けていく 勇気や力を何度かいただきました。
なんだか、とりとめもなく 長くなってきてすいません。心熱くなるレビュー、ホントにありがとうございました!
[2006/05/24 00:10] URL | うさぎ #- [ 編集 ]
うさぎさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
拙い文章ですが、読んでいただけて、うさぎさんの心を温めることができたのならこちらこそ幸甚です。
この作品、私も本当に感銘を受けましたので、心がまだ火照っております。その熱さが文章に少しでも伝わるようにと思って書きました。
『ジョバンニの部屋』も近々読みたいと思っています。BBMに出会ったおかげで楽しみが増えました。本当に感謝感謝です。
では、また遊びにいらして下さい。ありがとうございました。
[2006/05/24 00:41] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
初めまして。こちらにもコメントさせていただきます。読み応えのある濃厚なレビューですね。
真紅さんの記事を読みながら、映画にしろ小説にしろ、深い感銘を受けたとしても、自分のほうに引き寄せて考えるというベクトルにはいかず、いつも距離を置いてしまう「実はなんもわかってない自分」というものをひしひしと実感してしまいました。とほほ。
「愛」というのは実に厄介なことばですね。持っているイメージが人によって、状況によってぜんぜん違って当然のもの、というところが。「もう一つの国」の登場人物たちも、この現実に生きている人々も、それゆえに「愛」に囚われ、苦しんだり、打ちのめされたり、ときにはよろこびを受けたりしながら、永遠に翻弄され続けることになっているのかもしれません。
そう、「ルーファス」といえば、「ブロークバック・マウンテン」のエンドロールで非常に印象的な歌をうたっていたのがルーファス・ウェインライトでしたよね。彼自身、カムアウトしているゲイのアーティストであり、その立場をもふまえた示唆的で深い意味を持つあの歌詞こそ、字幕に出して欲しかったなあと思ったところです。
[2006/05/24 21:41] URL | テラロッサ #FDDq9IZE [ 編集 ]
テラロッサさん、こんにちは。拙ブログにお越しいただき、コメントありがとうございます。
世界文学全集に収録されていたほどの「名作」が、絶版なのは本当に残念なことですね。
ネットで検索していて知ったのですが、山田詠美氏もこの作品に触発されてデビュー作『ベッドタイム・アイズ』を書いたと発言されていました。
これを機会に(?)ぜひ新訳で出版してほしいと思います。野崎訳もほとんど違和感なく素晴らしいのですが、やはりこれはどうかな?と思う箇所もありました。
『The Maker makes』も、日本版DVDでは字幕付きでお願いしたいですね。「ルーファス」には気付きませんでした!
では、またいらして下さい。こちらもまた寄らせていただきます。
ありがとうございました。
[2006/05/25 08:09] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
こんばんは、真紅さん。この「もう一つの国」ですが、今だに手に出来ていないのでが、先日山田詠美さんの講演会の記事で、海外文学ベスト2にこの作品名を挙げていました!ちなみに、ベスト1は、ヤン・ウォルカーズの「赤い髪の少女」だそうです。この作品も探してみます。
山田さんが、日本文学ベスト1にあげている、有島竹郎さんの「生まれ出ずる悩み」は、山田さんの影響で学生時代に読み、号泣した作品です。木田金次郎とゆう画家にして漁師の人がモデルなのですが、”物を創造する尊さ”を深く感じた作品で、、凄く、オススメです。
いつか、「もう1つの国」を手にして、感想を述べたいのですが、、、(溜息)。
[2006/07/29 22:56] URL | sumisu #- [ 編集 ]
sumisuさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
山田詠美さんお好きなのですか?私もファンで全作読んでいたのですが、『アニマル・ロジック』以降はご無沙汰で、『風味絶佳』を久しぶりに読んだところです。
この作品は映画化されたそうで楽しみです。
彼女は『もう一つの国』に触発されて、処女作『ベッドタイム・アイズ』を書いたと発言されていますよね。
ベスト1の作品は未読です。読んでみたいなぁ・・今、夏休みの課題図書が山積み状態です(困)。
ご紹介ありがとうございました。『もう一つの国』読まれましたらまたお立ち寄り下さいね。ではでは。。
[2006/07/29 23:45] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
初めまして。
ボールドウィンの名前を見て嬉しくなり、思わず投稿してしまいました。
受験を控えた中学生の時、夢中になったのを思い出します。古本屋をまわり、日本で出版されたものは全て持っています。
エッセィですが「次は火だ」とか、「誰も私の名を知らない」は、時を越えて不朽の名作だと思います。
人類学者マーガレット・ミードとの対談「怒りと良心」も好きです。
子供の頃はアメリカは自由と富の象徴でした。ひたすら憧れだった頃、いわゆる「黒人文学」に触れて愕然とし、ウーマンズリブに揺すぶられ…
今は…夢破れた中年になりつつありますが…
[2007/05/19 14:29] URL | ごろにゃん #N.CarXIg [ 編集 ]
ごろにゃんさま、初めまして。拙ブログにお越しいただき、コメントありがとうございます!
おお、凄い!ボールドウィンファンでいらっしゃるのですね。
私は恥ずかしながら昨年までこの作家のことを知らずにいました。
ごろにゃんさまのように10代の頃に読んでいたら、もの凄く影響を受け、同じように著作は全て集めたと思います。
今はネットがありますから、私はネット古書店でこの本は手に入れました。
映画『カポーティ』を観たとき、ボールドウィンの名前がチラッと出てきたのですが、日本ではほとんど「知る人ぞ知る」存在のような・・。
またボールドウィンを読んでみたくなりました。ご紹介いただいた本も、探してみますね。
いえいえ、いくつになっても「人生これから」ですよ♪
ではでは、また遊びにいらして下さいませ!
[2007/05/19 16:34] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
ごろにゃんさま、コメントは削除させていただきましたが、何かありましたら「管理者にだけ表示を許可」という形でコメントいただけますでしょうか。
よろしくお願いいたします。ではでは。
[2007/05/20 17:16] URL | 真紅 #V5.g6cOI [ 編集 ]
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