BBMはなぜ普遍的な愛の物語なのか?~ブロークバック・マウンテン#6
4月19日に、「”Addiction”ハマる”ことについての一考察~『BBM』と
『冬ソナ』」というエントリをアップし、ずっと考え続けていた。
日参するブログに、「内田樹の研究室」がある。神戸女学院大学教授にして
武道家、映画評論家でもある内田先生のブログ。私は「おじさん的思考、おば
さん(または少女)的感性」の持ち主である内田先生の愛読者だ。先生、いつ
もありがとうございます。
5月2日の研究室のエントリは、「村上文学の世界性について」。先日フラン
ツ・カフカ賞を受賞した村上春樹の文学が、何故世界的ポピュラリティを獲得
しえたのか、について論じている。(私は村上春樹の愛読者でもあり、内田先
生は村上文学の数少ない理解者でもある)それによると、「父性」の不在ゆえ、
村上文学は世界的になったという。
父性、もしくは父の存在、父であることはBBMでも描かれているテーマだ。
考え続けていたところに、5月8日のエントリは「『冬ソナ』と村上春樹の世界
性」。あまりのタイミングのよさに小躍りしたくなる。
確かに冬ソナにおいて、『父(アボジ)の不在』は重要なキーワードである。
ここでは、冬ソナは「父の不在」という欠性態の上にかろうじて成り立つ物語
であり、それゆえ(村上文学と同じように)世界性を獲得しうる、ということ
らしい。
ちなみに、2005年04月28日のエントリでも冬ソナについて語られており、
「同一情景再帰の手法」=「予定調和的な宿命」に、観る者が「既視感の眩暈」
を覚えて泣けるのだとされている。つまり「『偶然の再会』を何回も観せられ
ていると、『お約束』とわかっていながら癖になって泣けてくる」という意味
だ。冬ソナの持つ中毒性、”Addiction”の正体は間違いなくこれだろう。
一方、BBMはどうか? BBMにおいても、『父の呪縛』は物語に大きな
影を落としている。(原作では、ジャックも父から幼少時に虐待を受けたこと
が描かれているが、映画ではイニスの体験のみが語られる)主人公たちが愛を
求め、お互いに恋焦がれながらもそれを失うのは、イニスが父の呪縛に囚われ
ていたことが大きいだろう。一見、この父性との関わりは普遍的なテーマに見
える。しかし、内田先生の説を採れば、「存在するものは存在することによっ
てすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」つまり存在しな
い、あるいは「見て見ぬふり、無かったこと」にされていることがじつは普遍
的なことなのだ。BBMは「父性が存在することですでに特殊」であり、ロー
カルでドメスティックな物語にしかなりえないことになる。
ここでもう一度、村上春樹が何故世界性を獲得し得たのかについて思い出し
てみる。父性の不在。父という、世界をマップする存在なしで歩き出し、自分
なりの「手描きの地図」を作り上げる。これが村上春樹の「仕事」であり、こ
の「ささやかだけれど、たいせつな」「絶望的に困難」な仕事に共感する世界
中の人々が、村上文学を支持しているのだという。その勇気と孤高の精神は、
BBMの製作者たち(原作者アニー・プルー、監督アン・リー、そしてもちろ
んヒース&ジェイクら)に通じるものではないだろうか?
彼らは自分達で「手描きの地図」を創ろうとしていた。二人のカウボーイの
愛という、今まで語られなかった物語を、必ず語られるべき物語だと信じて、
我々に届けようとした。「父のいない世界において、地図もガイドラインも
革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置
された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」これ
が村上文学に伏流する「問い」であり、「挑戦」または「信念」でもあるだろ
う。BBMの製作現場にあったという独特の空気は、この物語が正しく語られ
るよう、それぞれがこの「問い」に対する解を模索し、信念を持って挑んだか
らこそ生まれたのではないだろうか。
8年間の紆余曲折を経て、手描きの地図は書き上がった。だからこそBBMは
「普遍的な(愛の)物語」として、多くの人々の胸に残る作品となったのだと
思う。
『冬ソナ』」というエントリをアップし、ずっと考え続けていた。
日参するブログに、「内田樹の研究室」がある。神戸女学院大学教授にして
武道家、映画評論家でもある内田先生のブログ。私は「おじさん的思考、おば
さん(または少女)的感性」の持ち主である内田先生の愛読者だ。先生、いつ
もありがとうございます。
5月2日の研究室のエントリは、「村上文学の世界性について」。先日フラン
ツ・カフカ賞を受賞した村上春樹の文学が、何故世界的ポピュラリティを獲得
しえたのか、について論じている。(私は村上春樹の愛読者でもあり、内田先
生は村上文学の数少ない理解者でもある)それによると、「父性」の不在ゆえ、
村上文学は世界的になったという。
父性、もしくは父の存在、父であることはBBMでも描かれているテーマだ。
考え続けていたところに、5月8日のエントリは「『冬ソナ』と村上春樹の世界
性」。あまりのタイミングのよさに小躍りしたくなる。
確かに冬ソナにおいて、『父(アボジ)の不在』は重要なキーワードである。
ここでは、冬ソナは「父の不在」という欠性態の上にかろうじて成り立つ物語
であり、それゆえ(村上文学と同じように)世界性を獲得しうる、ということ
らしい。
ちなみに、2005年04月28日のエントリでも冬ソナについて語られており、
「同一情景再帰の手法」=「予定調和的な宿命」に、観る者が「既視感の眩暈」
を覚えて泣けるのだとされている。つまり「『偶然の再会』を何回も観せられ
ていると、『お約束』とわかっていながら癖になって泣けてくる」という意味
だ。冬ソナの持つ中毒性、”Addiction”の正体は間違いなくこれだろう。
一方、BBMはどうか? BBMにおいても、『父の呪縛』は物語に大きな
影を落としている。(原作では、ジャックも父から幼少時に虐待を受けたこと
が描かれているが、映画ではイニスの体験のみが語られる)主人公たちが愛を
求め、お互いに恋焦がれながらもそれを失うのは、イニスが父の呪縛に囚われ
ていたことが大きいだろう。一見、この父性との関わりは普遍的なテーマに見
える。しかし、内田先生の説を採れば、「存在するものは存在することによっ
てすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」つまり存在しな
い、あるいは「見て見ぬふり、無かったこと」にされていることがじつは普遍
的なことなのだ。BBMは「父性が存在することですでに特殊」であり、ロー
カルでドメスティックな物語にしかなりえないことになる。
ここでもう一度、村上春樹が何故世界性を獲得し得たのかについて思い出し
てみる。父性の不在。父という、世界をマップする存在なしで歩き出し、自分
なりの「手描きの地図」を作り上げる。これが村上春樹の「仕事」であり、こ
の「ささやかだけれど、たいせつな」「絶望的に困難」な仕事に共感する世界
中の人々が、村上文学を支持しているのだという。その勇気と孤高の精神は、
BBMの製作者たち(原作者アニー・プルー、監督アン・リー、そしてもちろ
んヒース&ジェイクら)に通じるものではないだろうか?
彼らは自分達で「手描きの地図」を創ろうとしていた。二人のカウボーイの
愛という、今まで語られなかった物語を、必ず語られるべき物語だと信じて、
我々に届けようとした。「父のいない世界において、地図もガイドラインも
革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置
された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」これ
が村上文学に伏流する「問い」であり、「挑戦」または「信念」でもあるだろ
う。BBMの製作現場にあったという独特の空気は、この物語が正しく語られ
るよう、それぞれがこの「問い」に対する解を模索し、信念を持って挑んだか
らこそ生まれたのではないだろうか。
8年間の紆余曲折を経て、手描きの地図は書き上がった。だからこそBBMは
「普遍的な(愛の)物語」として、多くの人々の胸に残る作品となったのだと
思う。
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テーマ : ブロークバック・マウンテン
ジャンル : 映画
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