『WANDA/ワンダ』

アメリカの炭鉱町で夫に離縁され無一文となったワンダはひとり街を彷徨う
バーバラ・ローデン(エリア・カザンの元妻)が主演・脚本・監督した唯一の映画
ヴェネツィア国際映画祭で外国語映画賞を受賞し、ヨーロッパで高く評価されながらハリウッドでは黙殺された1970年の作品です
近年再評価され、リマスター版が本邦初公開に至りました
そんな曰く付きの作品、観逃すわけにはまいりません
来月末で閉館するテアトル梅田にて鑑賞(涙)
日曜日の昼の回はほぼ満席
これは今年の必見作、最重要作品のひとつかもしれない
作品のテーマカラーなのであろうティファニーブルーが印象的
しかしそんなハイブランドとは無縁の、低予算インディペンド映画の極北のような作品です
私見ですがワンダはいわゆる 「境界知能」 な人だと思う
障がい者としてカテゴライズされることはない、ゆえに福祉に繋がれず生きづらさを抱えてしまう人
仕事が遅く飲み込みが悪い
計画性がなく行き当たりばったり
(カーラーを巻いたまま出廷するような)社会性の欠如
そんな彼女を観ながらイライラした人もいると思う
「何もかもうまくいかない」 「何もないし何もできない」 それはワンダ本人も自覚している
でもどうにもできないのです
50年以上前、バーバラ・ローデンにこの視点があったのか?
それはわかりません
ワンダと男たちとの関係は女優と映画監督の関係だという見方もある(byイザベル・ユペール)
しかし私は、日々報道される信じ難い事件の当事者である女性たちに思いを馳せずにはいられなかった
そういう女性たちが、近年 「境界知能」 なのではないかと問題提起され始めています
50年、いやもっともっと昔から存在していた 「ワンダ」 たち
この映画が黙殺されたのも、そんな彼女たちを 「見えない存在」 に貶めたままにしておきたかった 「誰か」 の力が働いたのではないかと思う
経済的に、性的に彼女たちを搾取し続けるために
幻の作品でありながら多くの映画人に影響を与えたという本作
是非多くの方に観てほしい
ワンダの 「絶望」 を
そして考えてほしい
世界が今よりほんの少し、やさしくなるためにできることを
(2022年8月10日、Instagramへの投稿より)
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
少し前(今年の4月)に 『ニューヨーク 親切なロシア料理店』 という映画を観た
主人公クララはまだ幼いふたりの息子を連れ、夫のDVから逃れるためにニューヨークへ身一つでやってくる
たどり着いたロシア料理店にはやさしい人々が集い主人公の人生を変えていく、というお話
この主人公の行動がどう見ても無計画で行き当たりばったり過ぎるのだ
いくらDV夫から逃れるためとはいえ 「それはないだろう(子どもたちがかわいそう)」 と思いながら観ていた
自宅鑑賞だったので感想は残さなかったけれど、何故か心に引っ掛かりを感じていた
そしてこの 『WANDA/ワンダ』 を観たとき気づいたのだ
「クララも境界知能な人かもしれない」 と
クララを演じたのが才媛の代名詞のようなゾーイ・カザンであるため、そこに思いが至らなかったのかもしれない(ミスキャストなんじゃないだろうか、、、眉根を寄せる泣き顔がワンパターン過ぎて 「こんなに演技下手だったっけ?」 と思ったし(スミマセン)。書き手に専念するには彼女美人過ぎるのだろうか?)
原題は 『THE KINDNESS OF STRANGERS』 見知らぬ人々のやさしさ、かな
やさしさや親切心だけじゃなくて、この世界には適材適所な就労や多様性の理解が重要なんじゃないかと思う
明らかに生きづらさを抱えているケイレブ・ランドリー・ジョーンズ演じる青年にドアマンの仕事が任せられたように
すべての人が生きやすい社会であれば、きっとみんながやさしくなれるはず
視点が変われば映画の印象も180度変わる
『WANDA/ワンダ』 はそんな気づきをもたらしてくれた作品でした
( 『WANDA/ワンダ』 監督・脚本・主演:バーバラ・ローデン/1970・USA)
スポンサーサイト
『原節子の真実』

(承前)
『東京物語』 その偏執的なまでのフレーム内フレーム、会話シーンの切り返しに 「これが小津調か〜」 と感激しながら、私は一人の登場人物に目が釘付けだった
「紀子」 という名の、亡くなった次男の妻
「原節子だ…!」
彼女の映画を観るのは初めてだけれど一目でわかる
日本人離れした容姿と誰にも似ていないオーラ
唯一無二の存在感を放ち作品を支配している
今敏監督の 『千年女優』 を観たとき 「これは原節子がモデルなんだろうな」 と思った、その本人が生きて演じているのだ
世界の映画監督がベストワンに選ぶこの不朽の名作を私ごときが評価することはもちろんできない
ただ、もっともっと原節子を観たくなり 『東京物語』 とともに 「紀子三部作」 と呼ばれる 『晩春』 『麦秋』 を立て続けに観た
どちらも原節子演じる 「行き遅れ」(死語) の娘・紀子が嫁ぐまでの顛末を描いたホームドラマである
どちらの作品も価値観の古臭さは否めないものの、コミカルなシーンもあり 「意外と面白い」 というのが率直な感想
すっかり原節子に魅了されてしまった私が次にしたのは石井妙子氏のノンフィクション 『原節子の真実』 を読むこと
2年前に読んだ 『女帝 小池百合子』 の感想(IGにアップ)に 「私は石井妙子氏を信じたいと思う」 と書いている
ノンフィクションといえど書き手のバイアスがかかるのは当然で、そこに現れる 「真実」 とは書き手の考えるそれであろうことを念頭に読み進めた
本作も力作であり、テーマが女性著名人であること、昭和日本の映画史となっていることは平成日本の政治史ともいえる 『女帝』 と似ているが、決定的な違いは著者の対象へのまなざしであろう
永遠の処女と呼ばれ第一線で活躍しながら突然映画界を去り、世間から50年以上身を隠した伝説の大女優・原節子への憧憬と好奇心は隠しようもなく行間から滲み出ている
小津安二郎との関係や北野武へ贈ったとされる数珠の逸話など、これまで 「既成事実」 とされていたことの 「真実」 を知れたことは幸いだった
しかし彼女と 「義兄」(原節子の姉の夫、映画監督であり思想家の熊谷久虎) との関係については理解に苦しむし、正直嫌悪感でいっぱいになる
黒澤明の名作 『羅生門』、黒澤が望んだ主役の第一候補は原節子であり、それを許さなかったのは 「義兄」 であったと本書にはある
あの京マチ子が原節子だったら、、、どうか想像してみてほしい
喉から手が出るほど欲しかった役柄を潰され、恋愛から遠ざけられながらなぜ彼女は 「義兄」 に執着したのか?
彼女ほどの逸材を羽ばたかせキャリア形成を助けるブレーンが他にいなかったのかと、一映画ファンとして悔しく、残念に思う
「義兄」 との一蓮托生を望んだのが原節子本人であったことは紛れもない 「真実」 であったとしても
戦前、戦中、戦後の日本映画界と、それを支えた原節子以外の人物たちについても数多く言及されている
映画は 「芸術」 とはほど遠い下等なものとされていたこと
女優がいかに見下された存在であり、低い地位に貶められていたか
同年代だった山中貞雄と小津安二郎は戦地に赴き、黒澤明は徴収さえされなかったこと(それは軍部と近い関係にあった東宝の口利きによるものであったという)
そして山中貞雄はひとり戦地で命を落とす
小津の悲しみ、悔しさはいかばかりだったことか
戦後、小津が黒澤に対して複雑な感情を抱いたとしても無理はないと思える
そんな彼らの 「ミューズ」 だった原節子もまた、彼らと同じく戦争の犠牲者だったのだ
今回新しい外国映画を観て、古い日本映画を知ることができた(温故知新の逆?)
今まで古い映画(特にモノクロ作品)は敬遠してきたところがあるのだけれど、これからは意識して観ていきたいな、と思ったり。。
( 『原節子の真実』 石井妙子・著/新潮文庫 )